杉野保さんの訃報にあたって

今朝になって東京雪稜会のラインで杉野保さんの事故による死亡を知った。

昨日3月5日の15時過ぎのことだという。

 

最初はあまりの唐突さに信じられなくて「嘘だろう」と思った。

発信者のY岡くんの悪いいたずらかと思い、見当違いな怒りすらわいた。

 

だが、リンクをたどるうちに事実を認めざるをえなくなった。

あの杉野さんがこともあろうに岩場での事故でいなくなってしまうなんて。

 

最後に会ったのは2月23日のおとじろうでだ。

そのおとじろうでフリーソロの状態での5mほどの高さからの墜落が死因という。

 

今のところは?が浮かぶばかりだが、落ちて亡くなったことは紛れもない事実だ。

これが最後とは夢にも思わず、「お先に失礼します」「お疲れさまでした」が最後にかわした言葉だ。

 

こんなことなら低レベルが恥ずかしくて言えなかった鹿児島・岸良のことを話しておけばよかった。

年末に会った時はその話しで盛り上がったのだから。

次に会ったときにでもと先延ばしにしたことが本当に悔やまれる。

 

でも杉野さんの最後となったシーズンに教えを受けられたことは不謹慎だが幸運であった。

いくつもの積年の疑問をぶつけ、答えを得ることができたのだから。

 

ヨセミテやスコーミッシュの話しができたことや、この計画を後押ししてくれたのが他ならぬ杉野さんの発信であったことを本人に話せたことは今となっては恥ずかしながらも私の宝のような思い出だ。

 

おとじろうでのことが思い出される。

 

空いた易しいルートをいちいち教えてくれたこと。

10aのハバネロを登り終えたかみさんに残置シュリンゲとビナでロワーダウンさせようとしたところ、親切にも古くて危なそうだからとラッペルを勧めてくれたこと。

11aのおとじろうハングを勧めてくれたこと。

そのルートを登る様子がいとも簡単そうであったこと。

その時はYFの講習会とのことだったが、TRながら一部裸足(靴下ははいていた)で登っていたこと。

私が謎のクラックラインをノーヘルで登っていた(杉野さんに見られている気がして慌ててしまい、リードなのに忘れた)のを下から見つめてくれていたこと。

そのルートが小林敏氏のルートであることを教えてくれたこと。

 

彼はきっとおとじろうのエリアが好きで、お気に入りの一つであったのだろう。

年末もだし、2月もいたわけだし。

 

年末、私がこのエリアは初めてだというと驚いてくれていた。

2月もまだ未登であることを告げるとやはり驚いてくれていた。

気恥ずかしくも認めてもらえているようでありがたい気分になった。

 

他にも感心したことはたくさんある。

トミー・コールドウェルらがドーン・ウォールを初登したおりにそのすさまじい価値に気づいていない日本のクライマーにR&S誌で喝破したあの気迫。

 

ヤマケイの技術書「フリークライミング」における極上の技術指南。

 

いつもお世話になっている「魅惑のトラッド」での短いコメント。

 

もう会えないのか!

残念でならない。

 

杉野さんが安全には人一倍気を回していることはその言動からも十分にわかり得た。

そんなことまでということに何度も驚かされたものだ。

 

それがなぜ?突風のせいなのか?

悔やまれて悔やまれてならない。

 

日本のこの時代にあって最高の教育者たるクライマーであった杉野保氏を私はこれからも忘れない。

 

追記

 

7日になってどうやら事故時はクライミング中ではなく、海寄りのラインを探索中であったようだ。

 

関係あるかわからないが、2月におとじろうで会話した折、おとじろうの入り江が先夏の台風で下地が上がり、これまでにない状況にある旨をきいた。

 

一番海寄りの春雷5.12aはビレイヤーはウェーダーを履いてビレイしたものだともきいた。

 

もしかしたら、今期の状況から潮が引いている時の可能性を探りにさらに海寄りをちょっと見に行くことはあり得るだろう。

 

だが、海寄りほどもろいことも十分に知っているはずだが。

あの地の風の特性や岩の特性・乾き具合もよく知っているように話からは伺えたが、予想を超えた突風が吹いたかもしれない。

 

結果からすると、どこかに不用意な判断ミスがあったといわざるを得ない。

この遊びの厳しさを今、かみしめている。